こんにちは。
『バットマン:ダークナイト』を観て、ヒース・レジャーに惚れ倒したミーハーまあこです。
話題の『ジョーカー』を本場のロサンゼルスで観てきたのですが、、、
作品どうこう以前に観客のモラルがどうなのよ!とカルチャーショックを受けたのでそのことを記事にしました。
早速どうぞ!
ホアキン・フェニックス主演、世界中で話題になっている『ジョーカー』。
世界的人気を誇る「バットマン」シリーズの中で最狂のヴィラン「ジョーカー」が生まれたきっかけを描く作品だ。
監督は「ハングオーバー!」シリーズをはじめとする、ナンセンスおバカコメディばかり撮ってきたトッド・フィリップス。
『ジョーカー』はトッド監督が初めて挑む社会派ドラマ。
今までのDCコミックス原作映画の中でも(エンドロールが短いことを筆頭に)異彩を放つ作品だ。
あらすじはこんな感じ。
過去に負った脳の傷が原因で突然笑い出してしまう発作を抱える壮年男性アーサー。
心優しい彼は病気がちな母親を支えるためにピエロとして食い扶持を稼いでいた。
人々を笑顔にするピエロの職を愛していたアーサーであったが、ある事件をきっかけに解雇されてしまう。
仕事を失い困窮する彼に世間はますます厳しく、精神を蝕まれたアーサーはついにジョーカーとしての片鱗を露わにするようになる。
アメリカに移住してから初めての映画館!前日からワクワクでチケットを予約したミーハーな私。
映画館につくやジョーカーのポスターの前で同じポーズで写真撮影を行い、Sサイズを頼んだのに日本のLLサイズくらいの大きさがあるポップコーンを頬張りながら、上映時間を今か今かと待ち構え、やっと上映開始。
そして鑑賞後、この映画に突きつけられた現実を何度も何度も考え、私ははしゃいでいた自分をタコ殴りにしてやりたいくらい落ち込んだ。中でも一番ショックだったのは「ああ、私もジョーカーを作り出す、嫌な人間の1人なんだ」と気づかされたことだ。
そう気づいたきっかけは、観客のアメリカ人たちが声をあげて笑うポイントに違和感を抱いたことだった。
劇中で唯一、ジョーカーが心を許したピエロ仲間が登場する。その男は人より身長が低いせいで、いつも同僚に心無い言葉を浴びせられる。
彼は自分をバカにするジョークを聞きながら、ただ困惑し、諦めたような表情を浮かべる。
そんなシーンで観客たちはジョーカーの同僚たちと同じように手を叩いて爆笑するのだ。
後半にももう一度、この男が登場し、殺人鬼と化したジョーカーにビビりまくるシーンがある。この場面でも観客たちは大爆笑。
こちらのシーンは意図して面白いように作られていたが、それにしても観客たちは、そんなに笑い続けることができるの?というくらいひいひい言いながらみんな笑っていた。
私はこの観客たちの態度にあれ?と違和感を感じた。
これっていじめじゃないの?
そう思いながらその様子を眺めていた。あれほど差別撤廃を掲げ、ちょっとした差別発言に敏感に反応し、全力で対抗する国の人たちが、みんなして何に対してゲラゲラ笑い転げているのか分からなかった。
そんなモヤモヤを抱えながら、映画はクライマックスに。
笑い者にされ続け、『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンとフォンティーヌが土下座をして謝るくらい惨めな人生を歩んできたアーサーの箍がついに外れてしまう。彼を笑い者にするためにテレビショーに呼んだ司会者を生放送で撃ち殺し、ここにジョーカーが誕生。
司会者を銃殺する生放送で感化された富裕層に不満を抱く人々は、ジョーカーをアイコンとして蜂起し、ピエロのお面を被った暴徒となる。
その暴徒の中にはきっと、ジョーカーを笑い者にしてきた人々も大勢含まれているのだろう。心優しい彼を攻撃し、自分の悦楽の為に踏みにじってきた人々が、今度は彼を祭り上げて、また自分たちの都合の良いように扱っている。
そんな人々の中心でジョーカーは彼の狂気の中で踊り続ける。
同じ蜂起した人の中のアイコンであっても、ジョーカーはドラクロワの『民衆を導く自由の女神』のような存在ではない。民衆の思惑とジョーカーの狂気はいつまでも交わることはない。彼は民衆を導く気などさらさらなく、民衆の熱気と暴力の中でひたすらに踊り続け、彼らを翻弄し、混沌に陥れる存在なのだ。
ジョーカーが横転した車の上で軽やかにステップを踏み続ける中、ゴッサムシティは機能不全に陥り、後にバットマンとなるブルース・ウェインの両親が暴徒に殺されたところで映画は終わる。
エンドロールが始まった時、一部の観客は拍手をし、私の隣に座っていた中学生は「Amazing! Amazing!」と連呼していた。皆、ジョーカーの情けない場面や背の低い同僚が笑われる場面で爆笑していた人たちだ。
こんな日本では味わえない雰囲気を目の当たりにして、はたと気が付いた。
この観客たち、きっとジョーカーが誕生した時に、暴徒化して取り巻きになる人たちだ、と。
そして入場前に警察による持ち物検査があったことを思い出し、だからアメリカの陸軍や警察が警戒しているのか、とも思った。この観客層が万が一にも暴徒化することを想定しているのだ。
もちろん「笑い」についての解釈は、字幕なしの英語だけで観ているため私のリスニング能力不足や、文化背景が違うことも影響があるのかもしれない。
映画は本来娯楽の為のものだから、楽しい場面やおかしい場面で笑っても良いと思う。でもこの映画で観客が出した笑いは、心地の良い類のものではなかった。明らかに弱い立場の人をあざ笑う類の笑いだったように思う。
私が聖人君主で清い心の持ち主だという話をしたいのではない。むしろそんな人物が笑われていることが気にならなくなって初めて「差別はなくなった」と言えるのかもしれない。そうだとしたらこんなに悶々としている私だって差別主義者ではないか。
私だって、ジョーカーを作り、祭り上げる取り巻きの1人になりうるのだ。
あーでもない、こーでもない、なんで映画の中の笑いについてここまで煮詰まって考えているんだと悩んでいると、逃げ道が欲しくなる。「Why So Serious?」と繰り返すダークナイトのジョーカーが頭の片隅に現れる。
「Why So Serious?」と訊かれれば、
私は正義でありたいんです。誰にも傷ついてほしくないんです。なぜなら巡り巡って私が傷つくのが嫌だからね!
と己が可愛い自分が顔を出す。もう1つ違う答えもある。
「Why So Serious?」って、あなたがあまりにも不遇だからシリアスなんだよ!あなたのためなんだよ!とここまで考え、ああ、でも私、ジョーカーに「あなたのため」と思ってほしいなんて頼まれてないな、と再登場する自己中さにまた落ち込む。
やっぱりどの道を取っても、私だってジョーカーを作り上げる身勝手な人間の1人じゃないか。
この映画を観てから1ヶ月が経とうとしているが、このように未だに心にしこりを抱えたまま収集がつかない。観客の嫌な部分も感じたし、それを分析することで、私の嫌な部分も見つけることになった。大衆としても、個人としても私たちがいかに自分勝手に生きているかを目の当たりにさせられた。
それだけでも映画としての力が強い作品だと思うのだが、映画の主人公を作り出す可能性がある、という意味で「映画に参加している感じ」「映画と繋がっている感じ」「インタラクティブ」が体験できるのもこの作品の魅力だ。
Netflixで少し前に話題になった観客の選択が映画のエンディングを決めるインタラクティブ映画『ブラックミラー:バンダースナッチ』は記憶に新しいが、『ジョーカー』はこういったハイテクな手法を用いることなく、従来の方法で私たちの思考や行動や過去が、主人公の行動に影響を及ぼしうることを痛感させてくる。
だからこそ映画としてダークパワーを発揮するのだと思うし、カンヌの金獅子賞を始めとする大絶賛大ヒットも納得だ。日本でこの作品を観た人は私と同じような感想を抱いたのだろうか。日本で鑑賞した人とも話し合ってみたい。
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